ほはばの鼎談 1980【前編】

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「ほはばのデザイン」に集まっているのは
「ものづくりを生業としている」
ということをのぞけば、出身地も職種もバラバラの6人。
と思っていたのですが、メンバーのうち3人が同い歳(1980年生まれ)
であることが判明し、この鼎談の企画がもちあがりました。
1980年。日本の自動車生産台数が世界一となる一方で
イラン・イラク戦争が勃発。ジョン・レノン暗殺。
巨人軍の王選手が引退、モスクワオリンピック開幕。
流行語は「竹の子族」「とらばーゆ」、
任天堂「ゲーム&ウォッチ」、TOTO「ウォシュレット」などが発売され、
映画「地獄の黙示録」「クレイマー、クレイマー」、
クリスタルキング「大都会」、海援隊「贈る言葉」がヒットしていた年でした。
この年に生まれ、それぞれの道を進んだ3人が、
「ものづくり」という接点を得て集まることになった偶然。
お互いの来し方行く末について、仕事について、
ぞんぶんに語り合っていただきました。
「ほはばのデザイン」1周年記念、
一風変わった同窓会をお楽しみください。
ほはば鼎談1
■幻の昭和64年
吉永美帆子(以下、吉永) わたし、1979年9月生まれなんですけど。
初田徹(以下、初田) 1980年2月です。
荒木智子(以下、荒木) 1980年3月です。
白石普(以下、白石) ほんとに歳が近いんだね。全員、完全に同級生。
ーーきょうだいはお姉様だけですか。
吉永 お姉ちゃんだけ。姉妹です。
荒木 わたしは弟がいます。4つ下の。
ーーわたしと一緒です。弟とふたり。
吉永 ふたりきょうだい多いですね。
初田 うちもふたりきょうだいです。4つ下の妹がいます。
吉永 わたしは2つ上で、38歳ですね。次女キャラです。
ーーきょうだいの有無って、人となりに関わってくる気もしますけど。
吉永 しっかりしてますよね、お兄ちゃんお姉ちゃんは。自分がやらなきゃと。
荒木 体裁整えるのはうまくなるから。
初田 第一子のほうが、手堅くいく印象があります。
吉永 まわりの友達とか見ていて、お兄さんとかお姉さんというひとたちははすごい努力してて、自立して、ちゃんと家買って、ちゃんと働いてるっていう気がする。
荒木 吉永さんも努力家じゃないですか。
初田 努力家ですね。
吉永 わたしの知ってる限りでは、荒木さんがいちばん努力家ですよ。
荒木 努力家じゃないですよ。でも、世代的な氷河期だったじゃないですか。
初田 育った時代は景気が良くて、いざ世の中に出るときには景気がどん底になっていた。
吉永 びっくり!みたいな感じですね。お父さんたちあんなに調子よさそうだったのに、なんでわたしたち……と。
初田 話が違う(笑)。
荒木 違いますよね、価値観も違いますよね。
初田 進路について考え始めた時点と、実際に進路を決定する時点とで、社会状況が正反対になっていた。
吉永 わかります。なんでもだいじょうぶみたいな感じありましたよね。
初田 そうですよね。1995年、中3の3学期に阪神淡路大震災、つづいてオウム真理教による地下鉄サリン事件があった。その前、80年代にも昭和の終わりがありましたが、平和についての疑いはまだなかった気がします。
吉永 そうだった。昭和64年ってやつ?
初田 幻の昭和64年。
吉永 昭和64年製の500円玉、すっごい探しました。
初田 いまやマイナス金利の時代ですが、80年代末には、銀行預金の利子がざっと10パーセント、しかも89年4月以前は消費税もなかった。いまは利子がほぼゼロで、消費税は10パーセントって一体……。
白石 当時俺、高校3年生で、3億円あると一生遊んで暮らせるっていう時代だった。1億あれば、預けておくだけで年収1500万くらいになるから。
吉永 すごいドリームですね。
初田 そのかわり、物の値段も高かったですね。
荒木 高かった。色鉛筆とか高かった。
白石 でも、普通のサラリーマンが1億円の家を買おうって思える時代だったんだよね。頑張れば。
■プーさんのワンポイント
ーーそんな中で進路を決めたのは、何歳くらいのときですか。
荒木 わたしは中2ですね。
吉永 早い!
荒木 それまでずっと絵を習っていて。父が自営業なんですけど、趣味でずっと油絵を描いてて、絵画教室みたいな山の中にあるアトリエに通ってたんですよ、山にこもっている油絵の先生がいて。それに幼稚園のときくらいから一緒に連れて行ってもらってて。中学に入って成績が伸び悩んでいた時期があって……わたしは熊本県出身なんですけど、熊本に一校だけ公立高校に美術科のある高校があって、絵描きになりたい人が憧れる学校だったんです。そこを狙ってみるかなと思ったのが中2のとき。それから1年絵をやってそこに行くことになって、家からだと絶対通えない距離だったんですね。始発で出ても遅刻する。だから下宿をしてひとり暮らしも始めたので、そこが人生のターニングポイント。
初田 早熟ですね。
荒木 ほかに選択肢がなかったの、田舎だから。あの学校もある、この学校もある、こういう大人がいるとか、いろんな選択肢があったらよかったけど、わたしの中には普通高校に行って勉強がんばって市役所とかに勤めるか、絵描きしかなかった。2種類しかなくて、じゃあ絵描きだと。
白石 このあいだラグビー部の同窓会があって、同じ都立高校で当時勉強のできた人たちはみんなお役人になってて、俺も含めて勉強ができなかった人は、自分で会社を興して社長になっている人が多かった。
ーー自ら職を切り開いて。
荒木 パイオニアだ。でも、みんながいいねって言ってくれる道は、たぶんそっち(お役所)ですよね。
白石 安定を求めるのがいいっていう風潮はある。
初田 選択肢のなさゆえに、かえって早く決断された。
荒木 田舎だから民間企業がないんですよ。
初田 お役人になるか、自分で道を切り開くか。
荒木 そうそう。自営の親の職業につくか、自分だけで思い切って道を切り開くか。
初田 早い段階で決断された。
荒木 早い段階じゃないと、家族の期待とかそういうものを感じて、身動きとれなくなっていたと思う。
ーー高校でもう家を出られたんですね。
荒木 下宿屋さんていうのがあって、熊本市内のうちの高校の近くなんですけれども、うちの高校だけじゃなくていろんなほかの高校の子、阿蘇の山奥から来てる子とか、天草の島から来てる子とかもいて。1年生は日当たりの悪い1階なんです。
ーーヒエラルキーが(笑)。
荒木 3年生になると3階に上がれるんです。角部屋をゲットできて、陽が燦々と入ってきて最高でしたね。
ーー『あしながおじさん』で、ジュディがそうやって学年が上がるごとにいい部屋に移っていく描写がありますよね。
荒木 そうそう。3年生になってやっと上の階の音なんて気にならない生活になる。おもしろかったです。学校に行ったら行ったで、いろんな価値観の子がいて。みんな美術をやりたい子で、高1の段階ですでに椅子のデザインをやりたいって言ってる子とか、芸大目指すっていうストイック系の子とか。その時期、「Zipper」「CUTiE」とか「Olive」とかの雑誌が流行ってて、それぞれのジャンルの濃い子たちが2、3人ずつクラスにいて。
吉永 いそういそう(笑)。
荒木 高1とかなのに、街の美容師さんとかと知り合いなんですよ。「すげーーー」って。
吉永 いますいます、クラスに絶対そういう子います(笑)。
荒木 そういう子しかいないクラスでしたね。
ーーそこで人間関係が変わりましたか。
荒木 完全に変わりましたね。いまでも覚えてるんですけど、高校デビューしようと思って入学式に、ワンポイントでプーさんの入った靴下をはいていったんです。
ーー大冒険(笑)。
荒木 ここにはもうわたしのこと知ってる人はいないと思って。おろしたての靴下はいていったら、キューティジッパーですよ(笑)。初日でガツンってやられました。
初田 いまの荒木さんからは想像もできない(笑)。
荒木 プーさん、大冒険でした。色刺繍ですよ。黒じゃない、黄色の。
初田 「わたし、おしゃれしてきちゃった」と思ったら。
荒木 「とんでもねえとこ来た」って。そんな15歳でした。
ーー吉永さんは15歳のときどうでしたか。
吉永 わたし、最近気づいたんですけど、中学校、高校、大学2年生まで、女子中、女子高、女子大で、ものすごい女子の中で育ってきたんですよね。そこがどう出ているのかわからないんですが、そうとう女子的。
荒木 憧れの先輩とか出てくるんですか、女性で。
吉永 あのバスケ部の先輩かっこいいよね、ぐらいはありました。中1とか中2は「きゃー」みたいな感じになってたし。中3くらいになるともう少し大人になってきて、男の人っていうのも知って、もうひとつの性への目覚めが(笑)出てきた時期。わたし、15歳のときにほんとうにはっきり覚えてるのが、永遠に15歳だって思ってたんですよ。なんでかわかんないんですけど。
荒木 永遠に女子高生ってやつと似てますか。
吉永 自分が歳をとっていくなんていうことは信じられず……なにを考えていたんでしょうね。でもほんとうにそう思ってて、ずっと15歳なんだと。歳を重ねていくイメージが持てなかったんだと思うんです。いまが永遠みたいな。ひたすらそれだけで生きてて。
荒木 中高一貫の学校ですか。
吉永 中高一貫です。校則が超厳しいカトリック系で、毎朝お祈りから始まるような。プーさんのワンポイントはもちろん校則違反です(笑)。
荒木 靴下は三つ折りですか。
吉永 三つ折りです。まっすぐはだめなんですよ。折り目がないとだめ。
初田 よく覚えてますね。
荒木 そういうディテールって覚えてますよね。
白石 ルーズソックス世代じゃないの?
荒木 完全に世代です。
吉永 アムロ世代。
荒木 とんでもなく高くなかったですか。E.G.SMITHっていうブランドがアメリカからやってきて、靴下の裏におじさんの絵が描いてあるんですけど。
吉永 靴下のワンポイントに詳しい(笑)。
荒木 ルーズ具合が絶妙なんだけど、一足2500円。ものすごい大金。
初田 まだデフレが来てない時代だったんですね。
荒木 ものがひとつひとつ高かったですね。
吉永 買ってました?
荒木 買ってました。すっごいがんばって。ゴワゴワ系か、ストーンってアトムみたいになるのと。ゴワゴワは女子にモテて、アトムは男子にモテる。わたしはゴワゴワのほうをはいてました。
吉永 わたしはもちろんだめだったので。
荒木 でも、学校帰りに三つ折りを脱ぎ捨てて……?(笑)
吉永 三つ折りをのばしてちょっとたるませるぐらいが精一杯(笑)。ルーズソックス世代なんですけど、ほんとにほとんどはかなかったです。三つ折りのばして満足してたんだと思うんですよ。
初田 憧れもなかったんですか。
吉永 ちょっと不良っぽいみたいな、そんな感じも持ってたかもしれない。
荒木 東京ってみんなそうだと思ってた。テレビでそう言ってたから。違ったんですね。
■時代がモラトリアムだった
ーー吉永さんはずっと東京ですか。
吉永 わたしは東京ですね。多摩地区。中学・高校は高円寺なんですけど。まじめでしたね。
ーーその歳をとらない感じの15歳が、高校、大学と進んで……将来なにをしようとか、そういうビジョンはあったんですか。
吉永 中学生くらいのときは、気象大学に行って、気象予報士みたいな、気象、地学の研究者になりたいって。
荒木 気象予報士の試験が一般化されたころですか。
吉永 ちょうどそのころか、ちょっと前か(注・1993年設置の国家資格)。宇宙、地球、空見てるの大好き、みたいな。だから美術系に行くなんて決めたのは、それこそ高校2年生の夏になって、おまえ進路どうすんだって学校から言われて、どうしようどうしようってなって……ほんと恥ずかしいんですけど、雑誌の一ページ見て、こんな画面づくりがしたいと思って、それには「……美大?」ってなっちゃったんですよ。
荒木 雑誌のレイアウト?
吉永 たぶんなんでもない雑誌の広告で、いま思えばたぶんPhotoshopですごいレイヤー化されてるだけみたいな、たいしたことないやつ。
ーーその誌面をつくりたいと。
吉永 誌面というか、こんな画面づくりをしたい、ってなったから、当初はデザイン科を考えてて。
荒木 烏口とか引いてたんですか。
吉永 予備校に行ったら、なんでもやりますっていう基礎科みたいな科があって、デザイン科に行きたい人も油絵科に行きたい人もとりあえずは2年生になったらここでやりなさいっていうのがあるんですよ。で、全部をやっていくうちに、自分がぜんぜんデザイン科っぽくないていうことにすぐ気付いて、もうちょっと土くさい感じの自分っていうのがわかって、まわりのみんなからも「え、油絵科でしょ?」って。「その土くささ、どうせ油絵行くんでしょう」みたいな。なんか棲みわけがあるし、デザイン科に行く人はほんとに「Zipper」とか「CUTiE」寄り。
荒木 細い硬い鉛筆でデッサンできるタイプの。
吉永 わたしはもう4B。それで美大に行ってしまったんですよね。
荒木 それって、相当大きいことですよね。雑誌のそれって。
吉永 ね。
荒木 ほんとうだったら気象のほうに行くはずだった。
吉永 たぶん気象熱はちょっと冷めてたんだと思います。で、どうしようどうしよう、決めなきゃ……って、そんな感じでいいんだろうかっていう進路の決め方をしたぐらいで。もしかしたら学校が厳しすぎたからかも。不良グループには入ってないけど、ちょっと反抗するみたいなのには入ってたので。
ーーちょっと三つ折りのばして、みたいな(笑)。
吉永 (髪を)ふたつ結びしかしちゃいけなかったんですね。それをひとつ結びで通してみたり。茶髪とかはしてないけど、校則から少しはずれるみたいなことはしてて。学校の影響はすごいあったと思います。思春期と絡んで。
初田 荒木さんが中2、吉永さんが高2で進路を見つけられたのに比べると、美大でも芸大でもない大学の4年でようやく竹工芸と決めた自分はものすごく遅い(笑)。
白石 学部はなんだったの。
初田 社会学部です。高校は付属の男子校で、当時吉祥寺にあった法政大学第一高校です。おふたりが三つ折りやルーズの攻防を繰り広げていたころに、制服のない学校に通ってました。
荒木・吉永 えーーー!
初田 詰襟は着たかったら着てもいいです、ただし学校指定の詰襟はないので、適当に自分であつらえて着てくださいと。
荒木 私服で吉祥寺で高校生……。
初田 一定のルールはあったような気もしますが、男子校ですからね。そんなの聞くわけなくて、短パンにサンダルばきくらいは当然で、金やら赤やら緑やらに染めてたりと、カラフルな教室でした。僕はぜんぜん地味だったんですが、奇抜というか、おしゃれな人は多かったです。
吉永 でも、ヤンキーには振れてないですよね。
荒木 ルールがないとぐれにくいですよね。
初田 不良っぽい人もいるんだけど、ファッションとしての不良。
吉永 悪いことはそんなにしない。
初田 多少はあったでしょうが、本職の不良の前に出たら縮み上がるだろう程度の不良。
吉永 育ちがいいんですね。
初田 みんなちゃんと企業に就職しましたよね。自分の場合は、まず家でものづくりは勧められていませんでした。勉強かスポーツしなさいって家庭だったので。うちの妹なんかは教育方針に沿ってすくすく育ちまして、勤め人になりました。エライ。
吉永 わたしの逆ですね。世の中のお姉ちゃんたちはそういうものだという。
初田 家庭で求められるものと違うものが好きだったので、まず親の勧めるまま大学まで行って、就職活動の段階で逸脱行動を開放したので、スタートが遅い。
荒木 そのぶん爆発力がすごいって感じがします。
初田 そうでもなかったんですけど(笑)。
荒木 でも、大学からっていうのは、よけいに大変だったと思うので。
初田 モラトリアム型で、潮が来たらなにかしようと、決定を先送りしていただけです。
荒木 でも、時代がモラトリアムじゃなかったですか。
初田 モラトリアムでしたね。
荒木 フリーターが非常に一般的になった時代。22歳で、ちょっとフリーターになっていろいろ考えてバックパックの旅行して……。
吉永 それが許される感じ。
初田 卒業して1、2年はふらふらしてる人が普通にいましたね。
荒木 普通でしたよね。
白石 俺たちの世代はすっごい厳しくて、フリーターとは言わない、プータローって言われてた。
吉永 プータローって、いま言う?
初田 いまはほとんど聞かないですね。フリーターという言葉も最初はポジティブな意味だったのが、ネガティブな意味に変わりました。
吉永 ポジティブっぽい感じですよね、最初のころは。
初田 派遣もポジティブな用語でした。
荒木 技能のある人がって感じでしたよね。
初田 いつの間にかニュアンスが変わりましたね。
ーーわたしが77年生まれで、就職氷河期がいちばんひどい年なんですよ。それから2、3年経つと、先輩たちがひどかったのを見ているから、もうしょうがないよねみたいな空気ができた感じ。弟がみなさんと同い年なんですけど、弟の学年を見ているとのんびりしてるんです。わたしたちなんかもう途方に暮れてたのに。
荒木 そうですね。就活の途中でもサボったり。
ーーそうそう(笑)。わたしたち、就活してみて「あれっ、もしかして就職できない?」って青ざめるみたいな。
初田 牟田さん世代は石にかじりついてでもという時代でしょうか。
ーーそう、どこかに入らなきゃ、入れるものだと思っていた世代。それが2、3年経つと、無理して入らなくてもみたいな感じになった。
吉永 みんなあっという間にフリーターになってましたよね、留年するくらいだったら。
■イタリアに行くと性格が変わる
ーー荒木さんも最初は油絵だったんですね。
荒木 高校の専攻は3年間ずっと油絵です。午前中が座学で、午後は体育館の裏に美術棟っていう古い2階建ての建物があるんですけど、まわりはデッサン用のニワトリとかウサギとか飼ってて獣くさいんですよ。牛の骨とかもごろごろしてる。
白石 静物画っていっても、ほんとの生物(笑)。
荒木 午後はそこで夜遅くまで……8時くらいに施錠されるんですけど、それまでずっと課題をやってるっていう。
吉永 熱いですね。
荒木 美術棟から2、3メートル離れると体育館があって、そこではもう青春が繰り広げられているわけですよ。バスケとかバレーとか。普通科や理数科の子とは見てる未来がぜんぜん違うんです。すごいギャップを感じてましたね。こっちが獣のにおいをさせながら制服に絵の具がついてぐちゃぐちゃになってるのに、向こうはもうキャッキャウフフですよ。すごい格差というか、同じ18歳でもここまで違うのかっていうのは感じてましたね。
初田 荒木さんは最初からAコース一直線と思いきや、Bコースの道で地味に過ごされていた時代もあるんですね。
荒木 どういう意味ですか。
初田 キラキラしてるイメージがあったんですけど、がんばってプーさんの靴下をはいてみたり、獣くさい中でキャッキャウフフを横目に眺めていたり、想像と逆だったので。
荒木 でもね、つねにどっちにもはまりきれてないところがあったと思うんですよ。つねに逃げがありましたね。美術科に来たら絵に没頭すればいいじゃないですか。絵の具まみれになって絵を描くのがいちばんカッコいいと思うんですよ。でも、わたしはプーさんをはいてしまうっていう……ちょっと惜しい、そんな青春。逃げなのかもしれないですけど。だからAでもBでもないところでもがいて、いまでももがいてるつもり。
吉永 わかります。常にキラキラしてる荒木さんが、はじめはプーさんだった。プーさんがあったからこそだったのかもしれないですね。
荒木 そうですね、あの頃はいろいろ、カルチャーショックがすごかったですね。
吉永 いまの荒木智子になったぞっていうのは、何年ぐらい前ですか。
荒木 イタリアに行ってからですね。イタリアに行くと性格が変わるんですよ。イタリア語を喋ると細かいことが言えなくなるんです、語学力がなくて。
白石 イタリアはイエスかノーかはっきりしてるね。つねにイエスかノーか決めなきゃいけない。
荒木 でも、違うなと思ったらぜったい違うって言わないととんでもないことになるし、曖昧さが美徳ではないので。
白石 そういう意味では性格が変わる。
荒木 そこで変わっちゃいましたね。
初田 日々決断を迫られる環境に置かれて、態度が変わったわけですね。
荒木 態度も変わるし、性格も変わるし。そこでもう一回、一から自分を作っていった。
初田 荒木智子デビュー。
荒木 デビューしました。20代半ばでようやくデビューできた。
初田 デビューは外からやってきたんですね。内から現れたのではなく。
荒木 意外と中はからっぽなんですよ。たいしてないんですよね、表現したいものとか。でも、状況に対応していくうちに、だんだん自分ができていくっていう感じかもしれないです。
ーー大学に行くときは考えましたか。
荒木 京都造形芸術大学なんですけど、受験の日は大雪だったんですよ。京都駅駅前のホテルしか空いてなくて、そこに母とふたりで泊まって……そのホテルの前で行き倒れてる人がいたの。仰向けに雪の中に倒れてて、救急車が来てて。そのときになんかこう、がんばらなきゃと思ったんですよ。人生、努力してもああなっちゃうかもしれないと。そのとき初めて、受験に対して前のめりになれた。
吉永 ぎりっぎりのタイミングで。
荒木 ぎりっぎり当日の朝に(笑)。なんかこう、背中合わせだなと思いました。大学はそんなにちゃんと選んでないですけど(笑)。
ーー大学は何科でしたっけ。
荒木 芸術学科です。
ーーいろんな授業が取れる感じの。
荒木 そうですね。日本画とか、いろんな授業を取れる。でも、基本は美術史と芸術とか、美術アートプロデュースとか。
吉永 キュレーター志望が多いイメージの学科なんですけど。
荒木 キュレーターになった人が多いですね。でも、キュレーターになれる人って限られてて、コネを持ってる人がほんと多くて。そのコネのレベルも、自分の親が美術館を持ってるとか。
白石 家業を継ぐんだ(笑)。
荒木 家業を継ぐのに必要だからこの大学に来たみたいな人が多くて、窯元の息子さんとか、日本画の先生の息子さんとか、親が何代目○○だとか。
ーー京都だと多そうですね。東京とは別の意味で多そうというか濃そうというか。
荒木 なにも持ってない人は、もうちょっと自分の人生考えなさいって。持てるものと持たざるものの差がすごかったですね。
ーーまたしてもヒエラルキー(笑)。
荒木 またしても持ってないほうですよ(笑)。美術館持ってるのかぁ、みたいな。
吉永 強すぎる!
初田 そこからイタリアに行ったのは……。
荒木 イタリアに行ったのは、大学のとき心がけっこう荒れてて、荒れてたときにイタリア美術史を専攻してたので、イタリアを1ヶ月半研修でまわるっていうのがあったんですね。その研修はすごくハードで、ボロボロになりながら重い荷物を背負って、お湯が出ない山荘に2週間とか。研修が1ヶ月くらい経ったときに、わたしがのちにモザイクを勉強することになるラヴェンナっていう街にたどりついて、それまではずっと治安が悪かったんですよ。街を歩いててもつねに緊張してて、財布は絶対腹巻の中、みたいなギラギラした目で歩いてたんですけど、ラヴェンナに着いたらものすごくリラックスできたんです。天然ガスが出るんですね。その関係で工場がたくさんあって仕事がすごいあるから、所得が高くて、治安が良かったんですよ。
ーー心にゆとりがある。
荒木 治安の良さに、すっかり温泉に入ったような気持ちになって歩いてたときに、入った聖堂の中で見たのがモザイクで。こう、染み入るじゃないですか。
ーーそれまでの1ヶ月が過酷すぎただけに。
初田 カラカラのスポンジに潤いが(笑)。
荒木 もう、甘露甘露、みたいな(笑)。で、いつかここに帰ってくるぞと思ったのが大学3年生のとき。そういう感じです。
(後編に続く)

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