ほはばの鼎談 1980【後編】

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 ■移動とともに人生が進んでいく
初田 東京はどのタイミングですか。
荒木 イタリアから帰国したときですね。イタリアに行った段階から、わたしはイタリアが好きだけど、住みたくないと思ってたんですよ。イタリアを歩いていると好きな家具とかいっぱい見かけるわけです。でも、買えないんですよ。お金もないし、買ったところで、ここがわたしの永住の地で一生ここにいるんだったら大事にできるけど、外国でそんな高い家具買っても、一生愛せないんじゃないかと思うと、がっかりしちゃって。わたしはイタリア人にはなれない、日本人だと思って。早く日本に帰って、仕事にできるくらいの技術を身につけようと思って、あわてて勉強して。で、モザイクで食べていくのに、どう考えても分母が多くないとだめだと、人が多い土地じゃないと絶対だめだと思って、東京。それが理由です。
初田 東京(初田)、東京(吉永)、東京(牟田)じゃないですか。いわゆる上京という通過儀礼がないんですよね。
白石 俺は学生時代、当時はまだバブルで、みんな地方からばんばん大学に入って来て、ひと旗あげようって言ってたのを見て、やばいと思って。このエネルギーがない、実家にいるし、と。で、イタリアに行く決断をした。田舎から東京に出てくる、あの感じを味わいたいと思ったらイタリアに行くしかなかった。
荒木 ハングリーにはなりますよね。なんか掴んでやろうと。
白石 ぬるま湯だもん、東京。
荒木 ぬるま湯だとおっしゃいますけど、ひとつひとつが大変じゃないですか、東京も。
初田 あらかじめ与えられてる東京と、自分で乗り込んだ東京じゃ、お湯の温度が違いますよ。
白石 イタリアから帰ってきて、東京にまだなんにもつてがなかったってことでしょう。
荒木 ないですね。
吉永 京都は考えなかったんですか。
荒木 京都の人って「まあ、東京からのぼってこられたの」みたいなことを言っちゃうけど、ほんとうは東京に対する憧れが強いなって、ずっと住んではたから見て思っていて。
初田 東京の人も、京都に対してへりくだる部分はありますね。
荒木 なんだろう、京都に生まれた人っていうのは、たぶん京都から離れられない。で、やっぱり京都は持てるものと持たざるものの差がすごく激しいから、そこで新参者としてやっていくのはちょっときついなと思って。東京は懐が広いというか。
初田 全員新参者ですからね。
荒木 そんな感じがします。
初田 東京で竹の仕事をしていると、京都でやったらいいじゃないですかとよく言われますけど……。
荒木 おそろしいことですよ……!
初田 荒木さんの歴史は移動の歴史ですね。熊本からまず家を出て、次は京都へ行って、いきなりイタリアへ行って、異国経由での東京。
荒木 移動してますね。
初田 移動とともに人生が進んでいく。
ーー何年ぐらいのスパンですか。
荒木 7年ぐらい京都にいたので……イタリアはじめヨーロッパに2年ちょい、で、東京。
初田 京都のほうがイタリアや東京より長いんですか。
荒木 そうかもしれないです。まだ京都のほうが長いかもしれない。
吉永 院まで行ったんですか。
荒木 院は行ってないです。研究室で2年。
ーー帰国されて上京したときって、どういう感じだったんですか。家決めるのが先とか。
荒木 家はユザワヤと世界堂を線で結んだところです(笑)。まず材料がない、道具がないから、ユザワヤと世界堂へたくさん通わなくちゃいけない。吉祥寺に大きなユザワヤありますよね、「すごい、天国や」と思って、世界堂見て「こりゃすごい」って。
初田 いまもそのエリアですよね。
荒木 離れられなくなりましたね。けっきょく。
ーーそういうのは、ネットで調べて。
荒木 家はネット環境がなかったと思います。市川にいるおばの家に泊まりながらいっしょうけんめい探してたんですけど、実は就職活動もしてて。
初田 それも意外ですね。
荒木 タイル屋さんに。
吉永 えっ、どんなタイル屋ですか。
荒木 すっごい怪しいところ。社長さんが一人でワンマンでやってて、ものすごい儲けてる会社で。手足になる女の子と男の子を常に必要とする人なんですよ。男の子はもういたんですけど、女の子が必要で。その面接受けて、研修とかも受けてました。
ーーそれはでも、ご辞退されて。
荒木 それで懲りて、じゃあもうやってやろうと思って。いろんなところに電話をかけて。カルチャースクールにもタイルの会社にも電話をかけて、会ってくださいって、ガンガン売り込んで。そこで教室をやらせてもらったり、カタログの表紙をっていう話をいただいたので、最初がよかった。
初田 やはり早い段階で攻めの営業をしたんですね。
荒木 失うものもなにもなかったですし。
ーーときどきスイッチが入るんですね。大雪の日とか、研修とか。
吉永 生命の危機になると、本能が目覚めるとか。
荒木 もともと自分からは行かなくて、なにか来たときに対する反応で……。
初田 カウンターで(笑)。
荒木 過剰に反応……(笑)。免疫力みたいな。
吉永 ウイルスが必要なんですね。
ーーまず侵入されてから、抗体が活躍するタイプ。
■メディテーション型
――吉永さんは何タイプでしょうね。
吉永 ターニングポイントですか。
ーーターニングポイントがない人もいると思うんですけど。
吉永 わたしも、生命の危機タイプではない気がするんですけど。
ーー「ユークリッド」の門を叩くって大きいと思う。
吉永 わたしはほんとに考えるのは2時間ぐらいなんです。「どうしようかな、どうしようかな……よし、やろう」ぐらいで決める。考える時間さえあれば。
ーー大学生のときは、その考える時間ってどこで来ましたか。
吉永 大学卒業後ですか。女子美に入って、3年から武蔵野美術大学に編入したんですよ。
荒木 編入って相当なエネルギーを必要としますよね。
吉永 人にひきずられたようなものなんですけど。武蔵美に行くわたし、みたいなのを高校生のときはなんとなく想像していて、でも見事に落ちて補欠になって……補欠って順番が出て、いま何番まで繰り上がりましたっていうのが、電話をするとわかるんですよ。「現在の補欠番号は10番です」みたいな。15番ぐらいだったのかな、高3のときに。15番で、7番か8番くらいまで繰り上がって、この日までで終わり、打ち切りっていう日があって、「あ、だめだった……」みたいな。で、一浪して、また補欠になったんですよ(笑)。2回目の補欠になって、予備校の先生の家にみんなで遊びに行ったときに、親から電話がかかってきて、順番がわたしのひとつ前まで来てるって(笑)。ただこれをみんなに言っていいのか、落ちた人も、浪人決定の人もいて、でもまだ自分も受かってないしみたいな感じでそわそわしながら、まあ、言っちゃうんですよ。言っちゃったんですけど、そのまま4、5日過ぎて、そこで締め切りになって。
ーーそのひとりが動かなかったんだ、ひとり前が。
吉永 後日予備校の先生に、あとひとりでけっきょく受かりませんでしたって報告をしに行ったら、「おまえのことは一生忘れないぞ」って(笑)。ひとり交通事故にでも遭わないですかねとかわたしも言って(笑)。
荒木 極限の状況なんでしょうね。
吉永 そんなふうに励ましてもらい、別に恨みに思ってたわけじゃないんですけど。女子美は実家から片道1時間半かかって、武蔵美は自転車で15分で行けたので、女子美に行った予備校友達はみんなわたしの家の近くに住んでて、やっぱり武蔵美行きたいねみたいな話をしてて、編入試験あるらしいよ、受けちゃおうかって。で、受かって。
ーーそのグループから、ほかにも受かったかたがいるんですか。
吉永 3人受けて、2人受かりました。いちばん仲良しが落ちちゃった。で、武蔵美に編入すると、単位がぜんぶは持っていけないとか微妙な感じで。わたし、実は教員免許と学芸員資格を取得してるんですけど。
ーー両方取るってけっこうたいへんですよね。
吉永 資格ゲッターになっちゃったんです。教員免許は4年間で取れなかったんですね、編入した関係で。取るには卒業してからも10ヶ月ぐらい大学に行かなきゃいけなくて、それを言い訳にフリーターの道に……。
ーーモラトリアムに(笑)。
吉永 10ヶ月ぐらい行ってると、就職活動もせず、なんかふわっとしちゃって。
荒木 でも、狙ったものはちゃんと手に入れてるじゃないですか。行きたかった武蔵美に行って、資格も取って。
吉永 選ぶときには特にないんですよ。こうひとりで文章とか書いて、「よし、やろう!」みたいになったら決める感じ。
荒木 文章に書いて吐き出してるんですか。
吉永 「はっきりさせなきゃ」とか書いて、「よし、いましかない」みたいな。
ーーそれに2時間くらいかかるんですか。
吉永 2時間くらい。だから、ぼーっとする時間がないと決められない。
荒木 ぼーっとするってすごい脳の整理をしてるとか言いません?
吉永 一日15分ぼーっとしたほうがいいって言いますよね。
ーーだから瞑想もいいって。
荒木 言い方ひとつってことですか、もしかして(笑)。
ーー「ぼーっとする」と「瞑想」だと、かなり違う感じが(笑)。意識高い感じしますよね(笑)。
荒木 「メディテーション」と言うと、さらに(笑)。
吉永 メディテーションすると、次の進路が決まる(笑)。
ーーメディテーション型だった(笑)。
■自分と会議して
――ユークリッドにいらして、もうどれくらいでしたっけ。
吉永 2014年3月上旬に入ったので、丸2年。
ーー初めてユークリッドの門を叩くときって、緊張しませんでしたか。
吉永 緊張しましたよ。11時に行きますって言って、10時10分くらいに駅に着いちゃって。とりあえず事前に場所を確認しておこうと近くまで来て、さすがに早すぎるから図書館行って。
初田 何の本を読んだんですか。
吉永 ルーシー・リー。
荒木 整えてますねー!(笑)
吉永 ユークリッドのホームページを見て、ショップみたいになってて店員さんの女の子がいて、「タイル、いいですね、もうちょっと詳しく知ってみたいです」くらいのノリを想像してたんですね。
荒木 けっこう構築して行ったんですね。
吉永 構築して「ちょっとお話を……」くらいのつもりでメールしたら、「白石普」って書いてある返信が来て、「本人!? 本人だ!」って。でももうこれはぜひ行きたいですって返信して。実は10時10分に駅に着いて下見に来た時に、白石さんがアトリエを開けてたんですよ。ああいう人なんだ……ちょっと怖いぞ、女性店員じゃないぞって(笑)。
初田 ヒゲが生えてる(笑)。
吉永 「チルチンびと広場」の「タイルびと」で見た怖そうな人だ、って(笑)。10時10分くらいにそれを知って(笑)。
ーータイルって決めたのはいつごろだったんですか。
吉永 3月にアトリエに行った、その前の年の11月ぐらいですかね。タイルなら食っていけるって思っちゃって。何も知らないっていうのは怖いけど強いですね。
初田 調べて白石さんにたどり着いたんですか、それともいきなり白石さんだったんですか。
吉永 ネットでは調べてて、ほかのところは月に1回しかやってないからタイミング合わないとか……。大学出て、ふわっとしていた期間が5年くらいあって、父親の仕事を手伝うようになって、ウェブデザインなんですけど、いやでいやでしょうがなくて。父親が営業なので「なんでもできます」みたいに仕事を取ってくるんですけど、わたしは大学が油絵科なのもあって、パソコン関係がぜんぶ独学なんですよ。できないことが多くて、新しいことを頼まれると、また調べるんだ、もういやだー、って。他人じゃないぶん、すごいムカつくんですね(笑)。親子はなかなか難しい。なんとか自立の道を模索したくて、で、油絵科は出たけど、画家で自立じゃなくて、タイルだったら仕事になると……。
荒木 そこに飛躍がある(笑)。
吉永 ありますよね(笑)。
荒木 もうすこしあるでしょう、ストーリーが(笑)。
ーーでも、雑誌を見て画面を作りたいって思われたのと、ウェブデザインって、共通するところがあると思うんですけど。
吉永 そうなんですよね。
ーーお父様が仕事を取ってこられて、実際サイトを作るのは吉永さん。
吉永 父の会社には実際作ってる人たちもいたんですけど、わたしは別で、この人に聞いていいよとか言われたんですけど、2、3回メールしたぐらいで、ぜんぜん聞きもせず。
ーーじゃあもう、いちいち自分で調べて。
吉永 いちいちぜんぶ自分で調べて。改行ができなくてひと晩とか(笑)。原因はよくよく見たらいらない点が入ってたとか、変な半角スペースが入ってたとか。なんなんだこの世界、みたいな感じで、ほんと、嫌いでした。
ーー嫌いと言いつつ、けっこう長くやられてたんですよね。
吉永 そこはもう惰性です。
荒木 でも、惰性じゃできないですよ。
ーー続けるっていうのも努力だと思う。それが突然タイルに……。
吉永 なんでそのときそう思ったかはちょっと……でも、いけるって思ったんですよね。
ーーまた2時間自分と会議したんですか。
吉永 たぶん2時間(笑)。
初田 絵画は具体的な使い道がないけどタイルみたいな実用品は使い道がある。必要になりますよね。
吉永 なると思うんですよ。けっきょくわたし、雑誌の一ページから進路は決めたんですけど、絵に行った過程で、ヨーロッパの家で壁に絵が描いてある、ああいうのがすごくよくて。でも、大学だと四角いキャンバスに区切られて、この中で表現しなさい、みたいなのが……だからキャンバスを四角じゃなくしてみたり、額縁をはずしてみたり、いま思えば四角の中だけじゃない効果を思っていたのか……それが、タイルならいけるんじゃないかと。
初田 メディテーションを通じて(笑)。タイルというマテリアルに新しいポテンシャルを感じた(笑)。
ーーそれでユークリッドの門を叩いたわけですね。
吉永 そこから新しい旅が……ジャーニーが(笑)。
吉永 ネバーエンディングジャーニーが(笑)。いまもチャレンジチャレンジ、アドベンチャーしてるわけです(笑)。
■二足のわらじ
初田 吉永さんがユークリッドに入ったのが2014年3月。じつは最近ですよね。
ーー初田さん、ご自分を遅いっておっしゃったけど、ぜんぜんそんなことは。
吉永 初田さんがうらやましいです。だってわたし、職人としては信じられないくらいスタートが遅いので。体力落ち目からのセメント25キロですから。20代からいまの道一筋で、十何年ですよね。すごい。
初田 僕の場合、22歳で始めましたけど、長いこと本業とは別にバイトしてましたから。
吉永 でも、それも修業しつつですよね。
初田 週に5日は毎日8時間勤務してから、帰って異様なスピードで夕飯を作って食べ、そのあと夜の数時間が自分の勉強、週末先生のところに行って教わる。最初の3年くらいはそういう感じです。
荒木 よっぽどすごくないですか。
初田 3年やってみて、このペースだとだめだと思ったので、一回バイトをやめました。週5でバイトしてたらだめだと。で、1年間無収入。そうすると今度は異常にお金が減っていく(笑)。収入はなくても税金も家賃も払うし、貧すれば鈍みたいな。で、もとの会社で再びお世話になり、週5、週4、週3、週2と徐々に減らす作戦へ切り替えた。振り返るといちばん元気な20代を二足のわらじで過ごさざるを得なかったのは、もったいなかった気もしますし、同級生は一人前の会社員として活躍しているわけですから自分の状況をかえりみて、精神的にキツい部分はありました。
荒木 それは、吸収力が半端じゃなかったと思いますよ。その焦りがかき立てて。
吉永 そうですよね。時間だけじゃないですよね。
ーー初田さんはひとつのことを長く続けられるかたなんですね。
初田 というより鈍いんでしょうね。荒木さんのような攻めの姿勢になれぬまま長い時間が過ぎました。「伝統」や「修練」について強く意識していましたし、誰かに迷惑を掛ける可能性を恐れて、過剰に遠慮していた気がします。ブログやSNSを試しては、という周囲からの助言にも「本筋の職人や工芸家はそんなチャラいものはやらん。師匠もやってないのに」などと無視していた。ところが、いつの間にか師匠がホームページをつくってまして(笑)。周りが先に進んでいた。やがて震災をはじめとする外的な要因から呪縛がとけ、2012年、丸10年のタイミングで世田谷に戻って手探りで動きはじめたわけです。白石さんや荒木さんとの初対面もその春ですね。まず、地元で旧知の美容室を中秋の晩に3時間だけ借りて、自分で企画した展示をしました。DMもデザイナーさんに作ってもらい、井の頭公園を歩いている人に手渡しで配ったんですよ。
吉永 アグレッシブです。
初田 井の頭公園なら歩いている人もリラックスしているはずなので、笑顔で渡せばもらってくれるだろうと。たとえば駅前だと皆さん急いでますからね。思惑通り、特に若い人が受け取ってくれました。よしよし作戦通りだと。当日も朝からいい天気。花屋さんに頼んでおいたススキと花を受けとり、もはやこのいくさ勝ったな、いざ出陣!と思ったら雲行きがおかしい。日没から台風が直撃です(笑)。
ーーまさにその時間帯に(笑)。
初田 せっかく動き出した一歩がこの結果。しかし自力で展示ができることはわかったし、誰にも怒られなかった。友人や花屋さんも嵐の中見に来てくれたし、展示が終わるころには晴れましてね。雲間にかがやく月を眺めながら10年のあれこれを整理すると、不思議とスッキリした気分になりました。
荒木 それは成果ですよ。
初田 ちょうど同じタイミングで、お世話になっているギャラリー経由で作品を載せていただいた本、小澤典代さんの『日本のかご』(新潮社とんぼの本、2012年)が出版されたのですが、その出版イベントが荻窪の6次元なる場所で催されるとツイッターでたまたま知りました。当然すぐメールしますね。かくかくしかじかで伺っても良いですかと送ると、すぐに6次元から「ぜひぜひ」と。当日は自分で作った茶籠と中の道具組一式をギャラリーから借りて参加しました。そのイベントで初めて牟田さんとお会いしたんですよ。
荒木 そこで知り合ったんですね。
初田 それが2012年10月24日、台風直撃の1ヶ月後です。
ーー「今日は籠を売っている人、作っている人、いろんな人が来てます」って。それで初めてお話ししたんですよね。
初田 参加者それぞれが愛用の籠を持参していて、牟田さんは入れ子になっている網代編みの籠をお持ちでした。その籠を拝見したいと話しかけたのが最初です。その夜は、今につながるよい出会いが幾つもありましたし、6次元という場も居心地がよかった。翌週の展示のDMを頂いたので、お礼がてらふたたび6次元へ出掛けると、お店の手伝いをされていた女性が「初田さんもここで展示をしたらいいじゃないですか」と勧めてくれて。6次元オーナーのナカムラクニオさんも「ぜひぜひ、来月にでも」と。さすがに来月は早いので、来年、2013年2月に33歳になる節目で出来ませんかと言ったら、また「ぜひぜひ」。決まりです、話がはやい。荻窪からの帰り道に企画をざっと考え、33歳という年の数だけ作品を展示する「竹 33のかたち」にしようと、道中の30分でぜんぶ決めた。
ーーなにもかもがそのわずかな時間のあいだに。
初田 あちらの反応が早かったので、こちらも負けじと。その展示は幸い大雪も降らず、牟田さんはじめ大勢の方にお越しいただきました。ワークショップもやりましたし、DMだけでなく8ページのカラー冊子まで作りましたから、もう大概のことはできる。
荒木 完全に武器を手にいれた(笑)。
初田 経験値も得てレベルアップです。
■面壁九年
初田 話が前後しますが、台風直撃の展示の件をお世話になっているギャラリーに報告していて、それなら初田さんウチで個展やりましょう、と6次元の展示よりも先に話が決まっていました。そちらは開催まで1年がかりですが。
ーー流れるように。
吉永 それがあそこですか。銀座の。
初田 日本橋ですね。「壺中居」のならびの2階にある「花筥」です。流れるようにというのは、10年の蓄積が地下水のようにようやく浸み出すタイミングと、自分の動きがうまく連鎖したのかもしれません。
吉永 金髪だったときですよね。
初田 そのときは金髪じゃないですよ(笑)。2014年の3月に個展を行いました。
白石 俺、吉永さんに行ってこいって言った気がするな。見てきなって。
吉永 はい、わたしそれでひとりで行って、白石さんって知ってますかみたいなこと聞いて、知ってますよって言われた気がします。そのときが初田さんとは初対面で、よくわかってなくって。
初田 白石さんから、期待の新人が来ているというお話は伺ってました。当時はまだ白石さんのアトリエに決まったお弟子さんがいたわけではなくて、おひとりのときが多かったので頻繁に遊びに伺ってましたね。
白石 さびしかったんだよ(笑)。
初田 白石さんはいい意味で大風呂敷なかたで、もちろん実力あってのことですが、将来のビジョンを大きなスケールで語られますよね。想定どおりに進まなくともくよくよせず、かといって無鉄砲ともちがう地道な段取りもする。ラテン系のノリと地道な職人気質が融合した、僕の周囲にはいないタイプの白石さんから新たに学ぶことが多かったです。不屈のポジティブさが新鮮で、僕は白石さんよりずっと小心者ですが影響は間違いなく受けていますね。
吉永 初田さんのお師匠さんって、型からはそんなにはずれないかたですよね。
初田 東京で100年以上つづく家業の3代目で、作り手であると同時に店の主です。伝統工芸の作家としては、型や権威の残っていた時代から長年積み重ねてきたものがあり、家業の継承者として背負っているものも大きいと思います。そこからはずれる選択肢はなかったでしょうし、はずれる必要もない。
吉永 生活も成り立っている。
初田 年齢や立場などあらゆる面で円熟の域に入っているというか。技術の工夫については研究熱心で、その話題には饒舌な反面、それ以外のことについては無口ですから、師匠自身の歩んだ人生についてはよく知りません。知らないのでそのときどきの師匠のいまを見ていたのですが、前提となる環境や時代、実力も含めて僕とは何もかも違うということを、当時は見落としていましたね。作風という点では師匠から離れることを心がけていましたが、作法的な道筋は追ってしまっていた。
吉永 美大の学生のころは、最近の芸術家ってセルフプロデュースしてやっていく感じになってきたよね、みたいな雰囲気があって、嘘でもいいから自分からやっていく、芸術家じゃなくてアーティスト、そういう人たちがだんだん世の中に出てきているね、と言っていた時代でした。
初田 僕には同世代のコミュニティや同志みたいな存在はいなかったですし、そうした新しい動きを耳にしても実感として触れる機会がなかった。まわりは父親くらいの年齢のかたばかりでしたから、少なくともそうした動き方をする人はいないし、仮にそんな話題が出ても、半人前が生意気なとか言われそう。
吉永 言われたらどうしよう、みたいな(笑)。
初田 やめとこう、って(笑)。それはそれでよかった面もあるとは思います。
吉永 お師匠様と初田さんの間ぐらいの人っていなかったんですか。
初田 いらしたのかもしれませんが、2000年代にはあまり存在を感じなかったです。師匠とその少し下の世代、いま60代くらいのかたが、不況以前の時代に若手作家として出発できた最後の世代だと思います。50代以下の世代だとすでに不況の中での船出ですから、家業でもなければ高価な伝統工芸ではなく、クラフトや日用品などに活路を探るかたが多かったのかもしれない。工芸の職業作家という意味では、00年代には世代の空白があったと思いますし、情報自体も少なかった。30代、40代の作り手がようやく世に出てこようといういま、あらたに海外で評価される動きが出てきたのは工芸にとって明るい材料ですね。
ーー漆の赤木明登さんとか、いわゆる生活工芸って言われているようなかたたちって、バブルの後に出てきて、そうやってシフトしていったんですよね、きっと。
初田 セルフプロデュース的な動きのはしりというか、生活工芸という概念をつくるところからものづくりの仕組みをつくりなおすという動きの先駆けですね。
ーー作品もつくるし、それをつくるための場所もなにかもぜんぶ自分たちでつくっちゃうような、そういうかたが出てくるにはまだちょっと早かった。
初田 大きな動きとしては早かったと思います。また、ひとくちに工芸と言っても、動きの活発なところと不動のところ、棲み分けがあった気はします。自分の場合には単にぼーっとしてただけですが。このせわしない時代に、よく10年近くもぼーっとできたものです。
ーー瞑想してた(笑)。
初田 面壁九年です(笑)。
■枠をつくるのかはずすのか
白石 これからっていうときだったのか、会ったころの初田君は。
初田 ちょうど瞑想から目覚めて動き出そうというときですね。
ーーわたしもその初田さんしか知らないです。33歳になられたときのその個展で初めて作品を買ってやりとりが始まったので。
初田 目覚めたあとに出会えてよかったです。
吉永 作品を買われたんですね。
ーーたまたま結婚する直前に個展を見に行って、これから新居に引っ越して新しい生活を始めるにあたって、ちょっと背伸びしてみてもいいかなと思って、がんばって買いました。
吉永 タイミング。
ーータイミングですよね。でも、そのとき思い切ったからいまもこうやってご縁があるわけで。
初田 そのあと、花を生けた写真をInstagramに毎日アップしてくださったんです。1年間、毎日ですよ。
ーーそうしないと使わないと思ったんですよ(笑)。使わずにしまいこんじゃったらもったいないから、なんとか自分を追い込まなきゃって(笑)。
初田 影響を受けて、僕も菓子切を千本削るとつい口走りました。そのおかげで菓子切りが定番になったわけです。周りの方からヒントをいただくというか、自分が動くと周りが反応して、その反応にまた影響を受けるというサイクルを学びましたね。
ーー打ち返すというか、リレー型なんですね。
吉永 数字が好きなんですか。33歳のときに、とか。
荒木 カウントダウンとか。
初田 まず枠をつくりたくて。数字も枠のひとつですね。文章でも仮のタイトルを決めてから書きますし。
ーー枠とか縛りとかつくりますよね。
荒木 そのほうが自分を出せるということですね。
初田 とっかかり、手がかりとして。他人が決めた枠にはめられるのはきらいですが、自分でつくるのは好きです。自由を乗りこなせないので適度に縛る。そういえば、制服のない母校のモットーは「自主・自律」でした。自分で枠を決めて、枠を土台にして広げるやり方は、そこで培われたのかもしれません。
吉永 すごい。でも、わたしはできない。
荒木 吉永さんは、先に枠をどうはずすか(笑)。
吉永 はずしたい(笑)。なんでこんなことやってんだって教授に怒られて、目立ちたいって言ったら、すごい無視されました。
荒木 無視っていうのが時代ですね(笑)。
ーーでも、こうやって話してみると、みなさんそれぞれでおもしろい。
吉永 同世代感、ありますか。
ーー同世代だから共通項が多いかなと思いきや、意外と三者三様でまったく違うスタイルだったので、それがかえっておもしろいかなと。これだけ違うのに同世代。でもやっぱり見てきたものは一緒。
吉永 わたし、日常的に9個上の世代から「十年ひと昔」って言われてるんですけど(白石の顔を見ながら)。まずジブリ世代だって。
荒木 ああ、ジブリで育っている。
白石 吉永さんが毎月映画会開いてるって言ってて、どんな映画やってるのって話になったときに、やっぱり子どものころ、多感な時期にジブリを観てると、元気な女の子と優しい男の子になるんだなと。
吉永 シータとパズーですね。
荒木 で、尊敬みたいなのがそこになっちゃう。
白石 男の人も夢に向かってガーッと突き進むっていうよりは優しいし、女性は生きがいを見つけてっていう方向性が、ジブリ映画に近い。俺らの時代はロッキー、ランボーだから。
ーースポ根(笑)。
白石 全員が腕立て伏せしてるような世界。小6くらいでこんな肩怒らせて歩いてるんだよ。
吉永 カワイイ(笑)。
白石 俺らはロッキーランボー世代だから、強い男がいいんだと。女性も強い男に憧れる。
荒木 たしかにモテていたのは、強い男じゃなかったですね。みんなベスパに乗ってました。ロッキーランボーじゃない。
ーー映画の影響は大きいですよね、そういう意味では。「マトリックス」観るとみんな黒を着たくなるじゃないですか(笑)。
荒木 「マトリックス」を多感な時期に観ちゃうと危険ですね。
ーー黒歴史とはこれか、みたいな(笑)。
(了)
荒木智子(あらき・さとこ)
1980年生まれ
1998年 熊本県立第二高等学校美術科卒業後、京都造形芸術大学入学
2002年 京都造形芸術大学卒業後、同大学芸術学研究室副手として勤務
2005年〜 イタリア北部の町、ラヴェンナにてモザイクを学ぶ
2008年〜 東京を拠点に、モザイク工房モザイコカンポを主宰。
「生活とともにあるモザイク」をテーマに、教室の運営、商業施設や個人住宅へのモザイク制作などを行う。ギリシャ・ローマ時代からのモザイク文化と、近現代日本独特のタイル装飾文化を融合させ、持続性のある豊かな空間を生み出したいと考えている。
初田徹(はつた・とおる)
1980年 東京都 世田谷区に生まれる
両親とも東京生まれで、祖父母の暮らしが身近にある環境で育つ。異国の映画を好んだ一方で日本の古典芸能にも親しんだ学生時代、大学4年在学中の2002年より竹工芸を学びはじめ、卒業後もその道へ。
2010年 東日本伝統工芸展 入選
2014年 日本橋のギャラリー花筥で個展
2015年 五島美術館の茶道具取合せ展に出品
2016年 メルボルンのヴィクトリア国立美術館での展覧会に出品
すぐれた使い手や作り手から伝えられた古い竹籠の技術と美意識に倣いつつ、現代の生活でともに時間を重ねられる品を目指し、竹と力を合わせて制作している
吉永美帆子 (よしなが・みほこ)
1979年、東京都 江東区に生まれる。
幼少期は一人遊びやごっこ遊びが好きだった。
武蔵野美術大学油絵学科卒業。タイル職人。
空間の意匠や装飾性によって生まれる新しい景色を探求するためタイルの絵付けを始める。しかし半製品のタイルを制作するだけでは飽き足らず、自ら空間におさめたいと考え、SHIRAISHI AMANE TILEWORKSでタイル絵付けを担当しつつ、施工を見習い中。新しい景色をつくることで、空間全面に貼られた1ピースのタイルのように、豊かな暮らしの1ピースを埋めていきたい。

ほはば鼎談2

(進行・構成/牟田都子)

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